連載『先人に学ぶ柔道整復』二十三 二宮彦可(前編)
2020.09.25
多くの師匠に学び『正骨範』を完成
今回から、現存する江戸期の接骨術の古典として有名な『正骨範』を著わした、二宮彦可(にのみやげんか、1754―1827)を取り上げていきます。彦可は、前回の本連載で紹介した吉雄耕牛から多くを学んだとの記録が残っています。しかし、耕牛以外にも師匠と呼べる人物がたくさん存在していたという彦可の生い立ちを概観します。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十三 二宮彦可(前編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十三 二宮彦可(前編)
2020.09.25
多くの師匠に学び『正骨範』を完成
今回から、現存する江戸期の接骨術の古典として有名な『正骨範』を著わした、二宮彦可(にのみやげんか、1754―1827)を取り上げていきます。彦可は、前回の本連載で紹介した吉雄耕牛から多くを学んだとの記録が残っています。しかし、耕牛以外にも師匠と呼べる人物がたくさん存在していたという彦可の生い立ちを概観します。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十二 吉雄耕牛(後編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十二 吉雄耕牛(後編)
2020.07.22
耕牛を取り上げてきたシリーズ最終回は、彼の医術(紅毛外科)が接骨術にどれほど影響を与えていたかを見ていきます。
耕牛の「スウィーテン水(梅毒治療薬)」による処方・治療は、「吉雄流紅毛医学」として広まり、楢林鎮山の楢林流と双璧をなすほど、江戸の世で不動のものとなりました。家塾「成秀館」も開き、門弟は600余。その講義の内容は、門弟・野村立栄(美濃高須藩医師)に与えられた『吉雄家学之秘条』の〈十カ条〉からうかがい知ることができます。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十一 吉雄耕牛(中編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十一 吉雄耕牛(中編)
2020.05.25
耕牛を訪ねた多くの一流学者たち
江戸時代に、オランダ語通詞でありながら「吉雄流外科」を興し、接骨家など多くの門弟を抱えていた吉雄耕牛は、医術(整骨も含む)のほか、天文学、地理学、本草学などを修め、蘭学を志す者にこれらを教授しました。今回は、耕牛の元を訪ねた学者たちを見てみたいと思います。
最も関係が深かったのは、オランダ商館付のスウェーデン人医師であるカール・ツンベリーだと言われています。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十 吉雄耕牛(前編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十 吉雄耕牛(前編)
2020.03.25
通詞であり蘭方医……門下生には接骨家も
今回から、江戸時代の接骨家・二宮彦可の師である吉雄耕牛(よしおこうぎゅう、1724-1800年)を取り上げてみたいと思います。
耕牛は、江戸時代中期にオランダ語通詞として幕府の公式通訳を務めるかたわら、蘭方医でもありました。耕牛は号で名は永章、俗称は幸左衛門、のちに名を幸作と改めています。オランダ語通詞一家として知られる吉雄家ですが、そのルーツはオランダ商館が平戸にあった頃までさかのぼります。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』十九 アンブロアズ・パレ(後編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』十九 アンブロアズ・パレ(後編)
2020.01.24
―日本で浸透した「肩関節脱臼の整復法」―
パレが生涯書きためた論文を「パレ全集」として出版したのは、晩年の1575年でした。これが伝わった当時の日本はキリシタン禁制が敷かれていて、スペインやポルトガルは追放され、キリスト教布教を目的としないオランダのみが長崎への出入りを許されていました。オランダ語に翻訳された全集を、まず日本の通詞(通訳)たちが、同書に関するオランダ人外科医の解説を聞き、外科絵図を見つつ抄訳。これが日本で最初の西洋臨床医学書となっていきました。
パレの日本での影響を示す上で注目したいのが、全集の挿図として描かれていた「肩関節脱臼整復で使用されている棒」(図1)です。立った患者の脇に差し入れた「曲がった形の棒」。当時西洋で使われていた天秤棒で、特別な医療器具ではありませんが、整復時には棒を上下逆さに使用していました。腋窩に触れる部分に丸い球を付けたのはパレ独自の工夫ですが、実は図1の下部にある棒の詳細な形状を示すスケッチは、日本に渡ってきた当時の全集には見られませんでした。
さて、1735年に全集を翻訳した西玄哲による『金瘡跌撲療治之書』では、この「曲がった棒」を用いた整復法が描かれています。パレの挿図と比較すると簡略化されていますが、人物の配置からパレ由来であると分かります。次に、1767年に刊行された『外科訓蒙図彙』(伊良子光顕)では、人物の頭髪は西洋風なのに、服装が中国風。ただ、この挿図でも「曲がった棒」が使用されています。
少し時代を下って、日本を代表する外科医の一人、吉雄耕牛の場合です。耕牛が弟子に与えた免許皆伝書(1790年)の中に、パレの脱臼整復法が載っています。西洋風の人物たちが「曲がった棒」を使い、治療する類似の絵が描かれています。
華岡青洲にも、弟子らの筆記した華岡流整骨術の絵図の中に、脱臼整復法を伝えるものが残っています。二人の助手が患者の腋窩に棒を入れ、担ぎ上げ、術者が腕を引っ張りながら整復しています。青洲の使用した棒は「まっすぐ」ですが、患者の膝を曲げ、これを縛れば、背の低い助手でも患者を吊り上げられます。これは青洲の工夫です。ここまで肩関節脱臼の整復図にスポットを当てて見てきましたが、パレの挿図が少しずつ変形していたのが分かります。
その後、耕牛の弟子である二宮彦可が『正骨範』を著するなど、日本独自の整骨術が花開きますが、江戸期に日本文化に同化していったパレの整復法が、起点になっていたのは言うまでもありません。
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』十八 アンブロアズ・パレ(中編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』十八 アンブロアズ・パレ(中編)
2019.11.25
―戦場で経験と実証を重ねた外科医―
パレの生きた16世紀のヨーロッパは、麻酔も消毒もなかったため、外科処置の際、患者を縛り付けたり、時には額に一撃見舞わせて失神させたりして手術するような時代でした。戦場では血や膿にまみれながら傷の手当てをし、銃弾を摘出し、脱臼・骨折を治し、手足を切断するなども外科医には重要な仕事でした。このような時代に、優れた外科治療と書を残し、外科学の地位向上に貢献したパレのエピソードを『大外科全集』の「弁明と旅行記」から見てみたいと思います。
1510年に生まれたといわれているパレは、少年時代をフランス北西部のラヴァルで過ごしました。兄や親戚が床屋外科医で、パレも幼い頃からこの道を目指したと思われます。20歳になる頃、パリに出て本格的な訓練を行い、パリ唯一の公立病院「オテル・デュー」でのポストを得ました。その後の1537年、床屋外科医として、フランス軍のトリノ遠征に随行することとなりました。パレはモンテジャン侯ルネの隊に専属。ルネ一行がパリからトリノまでの最大の難所であるアルプスを越え、イタリア国境近くのスーサの峠に差し掛かったところで、敵軍と初めて衝突します。ルネの分遣隊長であったル・ラ大尉が脚に被弾し、この治療をパレは命じられました。これまで都会であるパリの病院で外科訓練は受けていましたが、銃創の処置は経験の少ない分野でした。ベテラン外科医から「銃弾には毒があるから熱油で焼灼すべし」と習ったことなどを思い出し、パレはできるだけ熱くした油に麻布を浸して大尉の傷を慎重に焼灼しました。大尉は激痛に耐え、治療は成功。後年、パレはこの経験を「私が処置をし、神がこれを癒し給うた」という言葉で残しています。
ある時、治療中に油が足りなくなったことがありました。助手を調達に走らせましたが、他の床屋外科医も同様に不足していました。「毒という点を除けば、銃創も矢の傷も大差ない……」とパレは考え、助手に卵黄とテレピン油で軟膏を作らせ、これを塗っておいた包帯を傷口に巻いてみました。兵士たちはあの熱油の激痛を免れたと大喜びしましたが、パレは「明日、毒が全身に回って死んでしまうのではないか」と気が気でありませんでした。その夜、パレは一睡もできず、夜も明けないうちにそっと患者小屋をのぞきました。軟膏治療した兵士たちは傷の痛みも腫れもなく、静かに休んでいたのです。一方、従来の熱油治療を受けた兵士たちは熱を出し、患部は腫れて痛み、眠れずにうなっていました。パレはこれまでの療法がいかに間違っていたかを認識し、以後、熱油による治療は用いまいと心に誓い、同時に経験に基づく実証を重視した本を書こうと思い立ちました。
パレは初めてとなる著書『火縄銃その他の創傷の治療法』を1545年に出版します。床屋外科医たちが戦地でも役立てられるよう64ページの小型サイズで、パレの軍医経験を含めた本文と23の木版画で構成。硬めの装丁で安く印刷されていました。同書は教養の必要なラテン語ではなく、平易なフランス語で書かれた科学書として最も古い書の一つにランクされています。
参考文献:
森岡恭彦編著『近代外科の父・パレ』(1990年)日本放送出版協会
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』十七 アンブロアズ・パレ(前編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』十七 アンブロアズ・パレ(前編)
2019.09.25
―江戸時代の接骨に影響与えた西洋書―
今回から取り上げるアンブロアズ・パレ(Ambroise Pare、1510-1590)は江戸時代の接骨に大きな影響を与え、その技術は今日の柔道整復における源流の一つと言われています。まず、パレの著書と、日本への流入についてみていきます。
パレは16世紀のフランスの床屋外科医でした。フランソワ1世の軍事遠征に同行したのを最初に、以後、20回に及び軍事遠征へ同行しました。主な著作には『人体解剖論』(1561)、『10巻の外科書』(1564)、『5巻の外科書』(1572)などがあり、その後の『パレ全集』も、軍医経験から得られた外科技術がまとめられたほか、戦場における実践的な治療法が書かれています。中でも、『10巻の外科書』(以下、外科書)は英、独、羅、蘭の各国語に翻訳され、ヨーロッパで広く読まれました。
彼の外科学が日本に伝えられたのは江戸時代です。長崎に来ていた蘭医・メイステルが、外科書を用いて日本人に講義をしました。これを受けていた楢林鎮山(1649-1711、大通詞)が、その後の1688(元禄元)年に蘭医のウイルヘルム・ホフマンから外科書のオランダ語訳版(1649年版)を譲り受け、1706年に『紅夷外科宗伝』として著します。この書は、外科書の中で役に立つ部分が抜粋され、オランダ商館の外科医の力を借りて理解したことを漢文にしたものでした。その後、西玄哲が『金創跌撲療治の書』(1735)を著し、また伊良子光顕が『金創秘授外科訓蒙図彙』(1767)を著しました。両著書は「外科書」を仮名交じりの和文で著したものでした。中でも『金創秘授外科訓蒙図彙』は翻訳と言うにはあまりにも内容が原著と離れ、原著の内容も省略され、他の要素も加えられていました。また、誰が書いたどの本を基にしたのかも書かれていません。しかし、これは当時、蘭書が解禁されていなかったという社会的事情があった上、翻訳という考え方が確立していなかったため、臨床上有益なことを書き留めて解説しまとめたものであれば良いという風潮もあり、医学史界ではこの点も含め、「外科書の翻訳として秀でている」として評価されています。
そして、『パレ全集』には図譜が多数あり、これが日本で取り入れられる大きな要因でした。外科書にある整骨に関する図譜はその後、吉雄耕牛、華岡青洲らの整骨術にも取り入れられ、日本の接骨術の一つの技術として浸透していきました。
参考文献:大村敏郎編・東京都柔道接骨師会訳『アンブロアズ・パレ 骨折篇・脱臼篇』(1984年)、伊良子光顕『外科訓蒙図彙』(1767年)東京大学医学図書館古典籍コレクション所収
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』十六 《番外編》 嘉納治五郎の健康観
連載『先人に学ぶ柔道整復』十六 《番外編》 嘉納治五郎の健康観
2019.07.25
ー戦前の体力増進をウエイトトレーニングでー
毎回、一人の先人にスポットを当てて紹介していますが、今回は柔道の創始者・嘉納治五郎の健康観、特に体力増進の手段として取り入れたウエイトトレーニングに触れてみたいと思います。
治五郎は、『精力善用国民体育』(1930年)で、「国民の健康を増進し体力を旺盛にすることは個人の幸福達成のため願わしきはもちろん国家隆昌の基である。その目的のためには衛生思想の普及と体育徹底がなによりも必要である」と述べているように、柔道の普及のみならず、国民への体育普及にも力を入れていました。しかし、当時は体育が一般に実行されることは少なく、講道館柔道にしても、明治30年代から健康増進の方法として徐々に浸透していましたが、柔道の教師が不足していて、この状況を補う必要があると考えました。そこで求めたのが、老若男女の区別なく、また時間と場所の制約もなく、単独でも実践できる、身体を円満均整に発達させることが可能な体育法でした。
ある日、治五郎がイギリス人の某氏に会った時に、ユージェン・サンダウの話を耳にしました。鉄のような筋肉の持ち主としてロンドンで有名だったサンダウは、380貫目(約1,425㎏)の重さの騾馬(ラバ)の4輪車を自分の体の上に走らせるという演技を見せているというのです。元々は普通の体型だったものの、鍛錬の工夫によって自身の筋肉を鍛え上げたと聞き、早速サンダウの著した『体力養成法』を繙閲しました。その体力養成法とは、筋力トレーニング(ウエイトトレーニング)だったのです。彼のトレーニングは目に見える筋肉の発育のほか、内臓(肝臓、腎臓、心臓、神経)にも強さを増し、「根気も結緊される」と記されていました。また、長幼の差を斟酌して練習をすべきであるとし、トレーニングに年齢表を作成し、各年齢の男女が行うべき適当な度合いを定め、解剖図も示されていました。解剖図には、7~10歳の男女への適応から始まり、段階を経て17歳以上の男子までの練習メニューの目安が書かれています。さらに練習の注意事項として、急速な運動は長幼ともに慎み、軽妙に行うことが記されていて、健康上の効果に重点が置かれていると分かります。道具は主に亜鈴(ダンベル)を使用しましたが、サンダウが医学・生理学を勉強する過程で知り合ったと思われるホワイトレー教授とケーブル器械も開発しています。
このサンダウの筋トレに対する方針と方法は、治五郎の理想とする体育法との共通点が多くありました。練習は教師も相手も必要とせず、誰でも容易に行うことができ、加えて、その理論は医学的に緻密でした。治五郎は、自らが運営していた造士会から『サンダウ体力養成法』(1900年)を出版し、ウエイトトレーニングとして、日本で初めて紹介したのです。その後、1938年に日本のボディビルの先駆である若木竹丸により『怪力法並に肉体改造体力増進法』という専門書が発刊されるなど、ウエイトトレーニングは多くのスポーツや健康増進の手段として用いられ、今日に至っているのです。
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』十五 各務文献(後編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』十五 各務文献(後編)
2019.05.25
ー実証的医学に基づいた『整骨新書』―
今回は文献の代表的な著作である『整骨新書』(1810年)の内容を見てみたいと思います。文献は、整骨術の基本は骨骼(こっかく)の解剖学であると考えていました。それは、単に本の上の研究だけではなく、斬首の刑に処せられた罪人の亡骸を実際に解剖した記録で知ることができます。文献は遺体を集め、解剖の研究を重ね、『整骨撥乱』(1804年)を著しました。しかし、これを刊行せずに底本とし、その後に『整骨新書』を刊行しました。左上の表で示した同書の内容からは、文献の実証主義をうかがい知ることができます。例えば、解剖学では骨の数について、胎児、幼児の骨の数は成人のそれと同数でないことや、手足の指の種子骨の数にも個人差があることが述べられています。また、脊髄の連結と脊髄神経の関係や各関節の構造・機能についての記載も今日の解剖学的にみても正確です。さらに、男女の骨の形状の違いについても詳述し、幼児の寛骨が3つに分かれているのは大抵7歳までであるなどの記載も見られます。
「接法篇」では、診断、整復、固定、後療法の過程を総括的に述べており、次いで、各部位の損傷についても書かれています。具体的には、頭蓋骨、胸骨・肋骨、膝蓋骨骨折や顎関節脱臼、肩関節脱臼、肘関節脱臼や各靭帯損傷に触れており、また先天性股関節脱臼や奇形、変形についても言及されています。併せて、同書の特徴の一つとして、施術に器械を使用することが挙げられます。「器械篇」では、機械器具について、設計図や使用方法についても細かく記載されています。器械を使用する際の原則は「整骨ノ術ニ於ルモ……技巧ノ及バザル所ヲタスケ、力科ノ如何トモスベカラザルヲ益シ、或イハ形物ノ不足ヲ補イ、又調摂ノ宜ニ適セシムルコト…」と述べており、自ら器械を作成し、徒手療法の有用な補助として開発しています。
このように『整骨新書』は文献の広く深い臨床経験と実証的研究に裏付けされて刊行されました。ただ、刊行までには、21歳年下の妻の黒井(1776~1845年)の存在が欠かせません。自らも勉強して医術を身に付け、夫が研究に没頭して家業をおろそかにする間、代わって医院で診療に当たりました。「女性の産婦人科医なら安心」と、かえって繁盛したともいい、また、診療が済むと文献の前に裸体をさらし、自分自身を研究の実験台に。しかし、生きた人間の外側から内部の構造を知るには限界があり、黒井は考え抜いた末、遺体を手に入れて解剖してはどうかという提案をしました。こうして秘密裡に入手した遺体を解剖するうちに、文献は内臓のさらに奥にある「骨」にたどり着きました。文献の骨格医学樹立の影にはいつも黒井の支えがあったのです。同書の出版により接骨を専門とする施術家も多く現れ、接骨は外科の一派として確立していきました。
■『整骨新書』の構成
上巻:
運動器系と生理学
中巻:
1.骨折治療学の全般的な治療方法と各部位の治療方法
2.脱臼の全般的な治療方法と各部位の治療方法
3.靭帯・筋・筋膜の損傷治療について
4.徒手療法(マッサージ)、罨法、瀉血法の手技と目的
5.使用する器械の使用法とその図
下巻:
包帯の製法、包帯法、副子固定の図示
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』十四 各務文献(中編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』十四 各務文献(中編)
2019.03.25
―江戸期に解剖学に基づく木骨作製―
文献が文化7(1810)年に記した『整骨新書』は江戸時代の接骨の名著とされていますが、このほかにも解剖学に基づいた功績も残しています。今回は、江戸中・後期の解剖学の潮流を概観しつつ、文献のさまざまな功績を見てみたいと思います。
安永3(1774)年に『解体新書』が発刊されて以来、日本の医師はオランダ書を読み、解剖を見る機会が増えていました。当時、文献も既に産婦人科医として開業していましたが、難産に対応する技術が不十分として独学で解剖学の研究に取り組んでいました。寛政6(1794)年の師走には、文献は妻とともに刑死した女囚の遺体を持ち帰り、自宅の地下で隠れながら解剖したとのエピソードもあります。折しも寛政10(1798)年、江戸で大槻玄沢(杉田玄白と前野良沢の弟子)に師事し蘭学を学んだ橋本宗吉(1763-1836年)が私塾「絲漢堂」(現、大阪市中央区南船場)を開きます。文献もここに入塾しました。同門には伏屋素狄や大矢尚斎など、当時の優秀な学者たちが名を連ねていて、それぞれが専門科目の枠を越えて協同で研究に従事するようになりました。人体の研究のため、幕府に屍体解剖の願いを出した3年後の寛政12(1800)年、絲漢堂に死刑体腑分け(解剖)の許可が下りました。文献は人体の骨、軟骨、筋、関節機構の研究を進め、解剖の所見を『婦人内景之略図(寛政婦人解剖図)』にまとめました。
またその後、文献が発刊した『整骨撥乱(接骨発揮)』(1804年)、『整骨新書』、『各骨真形図・全骨玲瓏図』(1810年)に基づいて、工匠に実物大の精緻な木製の全身骨格模型を作らせました。実は、この木骨作製は、幕府から骨格模型の献納の依頼を受けたものでした。この頃、文化3(1806)年の江戸の大火で医学館が類焼し、星野良悦による「星野木骨」が焼失したという事情があり、大槻玄沢を通じて幕府に木骨を献納するようにとの要請があったのです。文献は既に病床にあったので、弟子の中山少仙に携行させて、文政2(1819)年に幕府に「各務木骨」が献納されました。文献は『模骨呈案』の中で、この木骨を「模骨」と表現して、「骨蓋ノ本形主用ヲ熟識スルコトハ整骨科ノ要務ニシテ正法ノ本ク所治術ノ由テ生スル所ナリ」とし、科学的(実測シテ研究スル)な医学に基づいた整骨術でなければ、人間の疾病や損傷による苦痛を救う医術とは言えない、と述べています。文献の業績は門人の奥田周道(万里)らに引き継がれていきました。
幕末から明治初年にかけて、文献の木骨を基に木製人体骨格模型が10体ほど作製され、西洋近代医学の振興に大いに寄与しました。そのうち1体は、東京大学総合研究博物館に「木製全身骨格・通称『各務骨格』」として収蔵されています。
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』十三 各務文献(前編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』十三 各務文献(前編)
2019.01.25
―江戸時代の名著『整骨新書』の著者―
今回から、江戸後期の整骨医である各務文献(1754~1819)を紹介します。文献は文化7(1810)年に『整骨新書』を記し、江戸時代の接骨術に関する三大名著の著者の一人に挙げられます。他の名著とは、高志鳳翼が延享3(1746)年に記した『骨継療治重宝記』と、二宮彦可が記した文化4(1807)年の『正骨範』です。
文献は大阪の西横堀で生まれました。各務家は代々赤穂藩浅野家の家臣でしたが、松の廊下の刃傷により主家が没落したため大阪に移り住んだといいます。文献は通称相二、字を子徴、帰一堂と号しました。少年時代より農工商を好まなかったため、定職がなく、将来何をしようかと職業の選定には大変迷ったようです。
ある日、世の中に役立ち、多くの人を支えるには医学を志す以外にはないと悟りました。その中でも「昔から日本に伝わり、未だに詳しく究められていない漢方の“古医方”と“産科”と“整骨術”の三つを開拓してもっと盛んにしたい」と思い立ち、これらの三つの科を志すことにしました。まず古医方を学ぼうと古医書について研究を始めました。しかし、志に合わなかったのか、次に産科を学び始めます。これは文献の性格に合ったようで、すぐにその奥義を極めて難産を救う数々の方法を創案し、産科の器械を何種類も作ったと自負しています。
その後、さらに整骨医を志し、大阪難波村の骨継「伊吹堂年梅家」へ入門しました。しかし、年梅家では整骨術を秘伝として門弟にさえも伝えないことに憤慨。自分で研究し修得するしかないと考えました。文献は中国の整骨術のあり方を追従することを憂い、旧説に依存しませんでした。
一方、蘭学にも目を向け、西洋流の整骨術の弱点も指摘し、実証的に医学を研究する姿勢を重視しました。既にその頃、関西には多くの蘭学者がおり、あちこちで解剖が行われていました。その影響もあり寛政12(1800)年、文献が46歳の時、自ら大阪で刑死者の解剖を行い骨関節の構造と運動作用の原理を推究しました。これに東洋的手法も加え、解剖学と生理学に立脚した整骨術を体系付けます。こうして文化7(1810)年、『整骨新書』三巻に精巧な図譜『各骨真形図』一巻及び『全骨玲瓏図』二枚を附して出版しました。その後も文献の研究の熱意はやまず、文政2(1819)年に腕の良い匠に命じて木製の全骨格の実物大の模型を作らせ「模骨」と命名し、それに整骨術の主意をしたためた『模骨呈案』一巻を附して幕府の医学館に献納します。しかし、はからずも病が悪化し、この年の10月14日に65歳で生涯を閉じました。その亡骸は現在、大阪市天王寺区夕陽丘の浄春寺に眠っています。後の大正8(1919)年には、文献の功績に対し従五位が追贈されました。
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』十二 名倉直賢(後編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』十二 名倉直賢(後編)
2018.11.25
―直賢の精神、子孫通じて今の柔整師へ―
今回は直賢の子孫で、明治期に活躍した陸軍医監である名倉知文と大正期の柔整師の関係について触れてみます。
知文は、幕末に江戸医学所で松本良順(初代陸軍軍医総監)から医学を学び、1874(明治7)年3月に『整骨説略』を出版しています。同書は、知文がまだ軍籍に入る前にドイツのケルストの軍陣外科書の骨傷編を訳したもので、同僚の石黒忠悳や三浦煥らがこの翻訳を強く勧めたといいます。内容は、「諸骨交節毀傷及移位論」「脱臼総論」「下牙床骨脱」「脊柱骨脱」「脋骨脱」「尻盤骨脱」「鎖子骨脱」「上臂骨脱」「轉肘骨脱」「手腕骨脱」「前後掌骨及指骨脱」「大腿骨脱」「膝蓋脱」「膝膕脱」「輔腿骨脱」「足跗骨脱」「足拗骨脱」について書かれています。それぞれ、脱臼の発生機序、症状、転位方向のパターン、整復法、固定法、合併症が記載されていて、現代の柔整師による脱臼の整復法に通じるものがあります。例えば、「上臂骨脱」(肩関節脱臼)では、肩関節の特徴として「上臂骨ハ運用最モ多ク窩臼狭隘ニシテ浅ク且ツ其臼ニ比スレハ骨體長大ナリ是ヲ以テ脱離ノ多キ餘處ニ過ク」とあり、「肩関節は運動が多く、関節窩が上腕骨頭に対して浅く狭いため、脱臼をしやすい」ことを既にこの時代で説明しています。また、全体の整復法にはドイツの医師による方法が紹介されていて、中でもストロメール(G. F. Stromeyer、1804~1876)の整復法が多くみられます。
同書が口火となり、知文の同門である足立寛(7代陸軍軍医総監)がドイツのホエリッヒの外傷による骨折と脱臼の成書を翻訳した『整骨図説』を1900(明治33)年に出版します。ドイツから輸入したエックス線像及び原色付図を初めて日本で紹介しました。また、『整骨図説』の肩関節脱臼の整復法はコッヘル(Emil Theodor Kocher、1841~1917)による方法が紹介されています。
知文による『整骨説略』は、『整骨図説』、『臨床小外科』(松本喜代美著、1915年)、『新撰外科総論』(茂木蔵之介著、1920年)とともに、1921(大正10)年に柔道整復師試験対策のために出版された『柔道整復術』(安井寅吉著)に大きな影響を与えました。直賢の接骨に対する勉学の精神は、子孫である知文に受け継がれ、さらには今日の柔整師の教科書の礎となっています。
参考文献:名倉弓雄『江戸の骨つぎ』(1974年、毎日新聞社)他
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』十一 名倉直賢(中編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』十一 名倉直賢(中編)
2018.09.25
―あて木など、直賢より続く家伝―
直賢は格闘技の柔術である武備心流から体術とともに、治療法を学んだとされています。さらに神田佐久間町の幕府医官・多紀安叔の私塾(後の医学館)へ通い、薬法も学びました。直賢の施術において大事な仕事は塗り薬の製造・副木作り・包帯巻きで、代々の秘伝であったそうです。
『江戸の骨つぎ』の著者・名倉弓雄氏は、幼少の頃まで施術の材料作りは施術所で見ることができたといい、その作り方は次の通りです。
「『黒膏』といわれる名倉家の練り薬はその日の分だけを用意していました。まず、『接骨木(ニワトコ)』を蒸します。蒸した接骨木を…(略)…ゴマを擂るすり鉢で完全な粉にします。ここまでの作業は保存がきくので、何日も前から用意しておくことができます。早朝に起床した使用人たちは、目分量でその日の患者数を設定して、まず接骨木の粉をさらに微細に擦ります。一方で米から取って精選した姫のりができ、また日本酒も樽で用意されます。これらをまな板の上へ、ほぼ楕円形に姫のりを流し、そこへ真っ黒な粉を入れ、日本酒で溶かしながら、竹のヘラで入念に練り上げていきます。この場合、キハダの粉も適当に混ぜますが、この混ぜ方と練り方が秘伝となります」
また、「名倉の包帯は絶対にゆるまない」と定評があったそうで、巻き方というより、包帯そのものに特徴があったといいます。生地の元は三河(愛知県)の晒(さらし)を選びました。その晒を反物そのままの幅で用いるのを「大幅」と呼び、以下順に、一反の半分の幅を「二つ」、同3分の1の幅を「三つ」、同4分の1の幅を「四つ」と称して、縦に裂いて包帯としました。このほか、「五つ」「六つ」という細い幅のものも用意されていました。長さは四尺、六尺が基本で、八尺というものもありました。
副木については、名倉家では「あて木」と言いました。紀州近郊の杉の産地と特約して、育ちの良い杉を5、6本購入したとか。これをかなりの日数滝に打たせると、髄(線維)が馴らされ、それを厚紙程度に挽いて半紙の大きさに切ったものが名倉家に運ばれてきます。その杉片を短冊のように切り、その幅は四分から四寸まで様々です。厚手の腰の強い上質の黄半紙に姫のりをつけ、この短冊をわずかな間隔で、幅の揃ったものを並べていき、その上からもう一枚紙を貼ります。つまり、二枚の和紙の間に杉のすだれが入っている状態です。
例えば、腕の骨折の場合、治療して黒膏を和紙に塗って患部に貼ります。その上に「三つ」の包帯を巻きながら、適当な幅で切ったあて木を巻き込んでいきます。その「三つ」の包帯の上をさらに「六つ」の包帯で巻いて納めます。
こうした直賢の施術は子の良音や知重にも伝えられ、1845(弘化2)年の『旧考録』には浅草寺参詣に来た小将軍(後の徳川家慶か)に知れるところとなったとの記録があります。また孫の市蔵の頃には、徳川家祥の鷹狩の休憩所として名倉家が選ばれたほど、その名が広く知れ渡りました。
参考文献:名倉弓雄(1974年、毎日新聞社)『江戸の骨つぎ』、永野彦右衛門(1845年)『旧考録』
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』十 名倉直賢(前編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』十 名倉直賢(前編)
2018.07.25
―「千住の弥次兵衛さま」と親しまれた接骨家―
今回から、江戸時代の明和年間に接骨家として名を馳せた名倉直賢(なぐらなおたか、1750―1828)に触れてみたいと思います。現在、関東地方を中心に「名倉」と名の付く接骨院は数多くあります。「ほねつぎ」の代名詞のように伝えられる、この「名倉」のルーツは、弥次兵衛と称した名倉直賢から始まったものです。
直賢は1750(寛延3)年生まれで、幼名は市三郎。名倉家は桓武天皇の末裔で、畠山重忠の子孫となります。戦国時代は埼玉県小鹿野町に居を定め、当時は「奈倉」と称しており、23代行家が北条早雲の麾下(きか)にあった時に初めて「名倉」と名乗りました。その後10代くだった名倉弥次兵衛重直の時に武州千寿(現在の東京都足立区)へ移り、これが千住の名倉初代となりました。直賢は重直の曾孫にあたり、名倉家で初めて接骨を業としました。
直賢といえば、幼少の頃から武術に興味を持ち、楊心流柔術を神田の木村楊甫に学びます。その後、武備心流体術を学びました。武備心流の同門の中には、川寸木翁という人物がおり、彼が直賢に接骨家になる上での大きな影響を与えます。直賢はさらに薬法を学ぶために、神田佐久間町にある幕府の医官・多紀安叔の私塾へ通い、治療家としての地固めもしました。
1772(明和9)年には江戸が大火(いわゆる目黒行人坂の大火)に見舞われ、その折、直賢は千住で随分人助けをしたとの記録があり、接骨としての創業はそれより前だったと伝えられています。直賢の家は千住の北の日光・奥州街道、下妻街道、水戸街道の分岐する地点にあり、この地は参勤交代や日光東照宮祭礼に詣でる将軍・諸侯などの宿場町として栄えたため、稼業の接骨は人目につきやすく、話題になりました。商家の主や番頭、役者、相撲取りなどが患者として訪れていたといい、中でも画家の谷文晁とは親しく、文晁からは治療代を取らなかったため、代わりに絵を置いていったといいます。周りから「千住の弥次兵衛さま」と親しまれた直賢は、中年を過ぎて「素朴」と号します。また晩年には「有隣堂其徳」とも号しています。
明治・大正期の小説家・森鴎外による『名倉系圖』には、直賢が次のように記されています。
「父経則母重方之嫡女也以寛延三年庚午之年生性剛直而好武楊心流剣術柔術之活法之伝学於木村楊甫数年勤力以夜継日夜終楊甫之免状矣又新当流剣術武備心流体術附法草麾神伝並骨傷科之伝者所以愛於川寸木翁也術成而授是江府之諸士皆所以尊宗而無並立者実者実一人也中頃川寸木翁所授以骨継之伝為業療病凡数千人是亦骨継別派之元祖而其一人也亦翁好風雅之道而自号陸奥菴街又有隣洞其徳、文政十戊稔七月四日卒年七十有九歳有隣院其徳柳翁居士」
参考文献:森鴎外(年代不明)『名倉系圖』、日本柔道整復師会(1978年)『日整六十年史』、名倉弓雄(1974年、毎日新聞社)『江戸の骨つぎ』
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』九 嘉納治五郎(後編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』九 嘉納治五郎(後編)
2018.05.25
柔整との接点と治五郎の高弟たち
治五郎のお話の締めくくりとして、彼の柔道整復との接点に触れてみたいと思います。治五郎が創始した講道館柔道は明治中期より柔術各流派を統合し、次第に興隆の徴を表していました。接骨に対しては、「講道館柔道には人の足腰を察するようなことはさせたくない」という見解を当初示していたようです。というのも、大正末期まではいまだに江戸時代の考え方が色濃く残っており、地域医療に対する世間の見方は「士農工商でいえば、工と商の間くらい」の評価でしかありませんでした。武家由来の柔道家が接骨を営むことについて、治五郎が理解を示さなかったのもやむを得ないことでしょう。このように医療行政的に厳しい状態の中で、どうにかして接骨を業としてつなぎとめたのは、天神真楊流をはじめとする各流派の柔術家による秘術としての接骨術が世間に対して治療実績を上げ続け、信頼を得てきたからだといえます。一方、1906(明治39)年には整形外科が一般外科から分離独立し、東京大学内に講座が開設されています。このため、整形外科は接骨業と診療科目が重なり、将来的に両者は競合することが懸念されていました。
こうした中、治五郎は萩原七郎の強い働きかけにより、講道館の高弟である山下義韶を派遣し、全国の接骨家と協力して「柔道接骨術公認期成会」を結成し、接骨術の法制化に協力しました。その結果、「接骨」は、1920(大正9)年に按摩術に準じて免許を与えられることになり、「柔道整復」という名で初めて法規の上で認められることとなりました。
この「柔道接骨術公認期成会」には、山下のほかにも治五郎の高弟の柔道家がいくらか協力しています。例えば、大阪では戸張滝三郎(1872年~1942年)。のちに大阪調整会の相談役兼顧問を務め、大阪府柔道整復師会の代議員や副会長などを歴任しています。また、講道館関係者では、愛知の米田松三(1892年~1958年)がおり、愛知県柔道整復術組合(現愛知県柔道整復師会)の創設メンバーとして尽力しました。米田は愛知県立第一中学校時代に既に初段を取得していましたが、東京物理学校への進学のため上京した際に、山下の元に住み込み、そこから講道館へ柔道の稽古に通っていました。その後、米田は柔道9段となり、さらに柔整師として愛知県柔道整復師会の第3代会長に就任しています。1928(昭和3)年には施術所を併設した「米田道場」を創設し、この道場は後の米田柔整専門学校へと継承されています。
治五郎の柔道整復に対する関わりは政治的側面が強かったのですが、治五郎の高弟たちの活動により大阪、愛知など大都市で柔道整復の基盤が作られ今日に至っています。
参考文献:加藤高茂、長谷川泰一、江口真一編(1959年、米田松三遺徳顕彰会)『米田松三』ほか
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』八 嘉納治五郎(中編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』八 嘉納治五郎(中編)
2018.03.10
柔道も飛び越え、スポーツ振興に力尽くす
治五郎は1936(昭和11)年に講道館道場で行われた喜寿祝賀式の挨拶で、各界名士を前に「最も力を尽くしたのは申すまでもなく講道館柔道のためであり…(略)…次に私の力を尽くしたのは師範教育であり…(略)…第三に私が力を尽くしたのは、体育とか、競技運動というようなことであります」と語っています。柔道の創始をはじめ、東京高等師範学校(現筑波大学)校長として体育科設置や体育専門職者の育成など、その活動は多岐にわたり、冒頭挨拶に挙げた「体育、競技運動」というのは、1911(明治44)年に治五郎によって創立された大日本体育協会(現日本体育協会)の当時の規約の第2条「本會ハ日本國民ノ體育ヲ奨勵スルヲ以テ目的トス」からうかがい知ることができます。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』七 嘉納治五郎(前編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』七 嘉納治五郎(前編)
2018.01.10
柔道創始者の柔術・接骨との接点
今回から、講道館柔道の創始者として知られる嘉納治五郎に触れてみたいと思います。治五郎は講道館を創始する以前、天神真楊流柔術や起倒流柔術などの「古流柔術」を習っていました。天神真楊流柔術は現代の柔道整復術の源流の一つであるため、柔術修行の中での接骨との接点も少なくなかったといえます。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二 竹岡宇三郎(中編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二 竹岡宇三郎(中編)
2017.03.10
卓越した整復技術を披露し、法制化に貢献
今回は竹岡宇三郎の柔道接骨術公認期成会(期成会)の会長としての活動に迫ります。
明治末期、「接骨術」を法制化するために組織された期成会の実質的な政治活動は、萩原七郎(柔道家、接骨家)によって開始されました。柔道保存という国家的な見地に立ち、柔道家の生活確立のための経済基盤を整えようとした人物です。萩原については、『柔道接骨術公認期成会設立ノ理由』(1913年7月)の中の、「武ハ誠ニ国家精神ノ根本ナリ…(中略)…、益々光輝アルモノハ柔道ナリ…(中略)…、其奥儀ニ於テ、幸ニシテ接骨術ノ一法アルナリ、由テ以テ柔道ノ命脈ヲ持続シ来リタリ、故ニ柔道伝授ノ心法ニシテ、生々子孫ニ渉リテ断絶スルナクバ、日本特有ノ柔道ハ誠ニ永古不朽ノモノタルナリ…」との記述からその強い意志が窺えます。
しかし、結成までに萩原は活動への賛同者集めに大変苦労します。理由は33歳という若さで、多くの接骨家が政治的指導者として認めなかったことにありました。そんな中、宇三郎は、相談に来た萩原の公認運動の姿勢に共鳴。会長の重責を引き受けます。これにより数多くの接骨家が参集し、1913(大正2)年に期成会が結成されました。柔道接骨術公認の請願書は何度か議会に提出され、その後内務省衛生局の諮問に付されました。そして公認の可否について、接骨術の「実態調査」という最後の段階に差しかかり、接骨術の「真価」について当局の理解を深める必要に迫られたのです。
実態調査の当日、当局の技官や、内務省衛生局から派遣された医学博士らが竹岡接骨院に集まりました。宇三郎は、西洋医学に基づいた病態の把握及び整復時に患者に苦痛を与えず、後遺症の少ない手順等の整復技術のほか、殺菌性の高いヒバ木の副木や、宇三郎考案の固定力が高い上、人体にフィットしやすく整形できる金属シーネを用いた合理的で科学的な固定法の実地を直接披露し、当局の認識を新たにさせました。
こうして宇三郎の卓越かつ医学的根拠に立った技術が接骨術の信頼度を高めたこともあり、1920(大正9)年に柔道接骨術は「柔道整復」として公認(按摩術営業取締規則改正)されました。この時、宇三郎は警視庁の第1回柔道整復術試験の実技担当の試験官に任命されます。これを知った全国の受験生が見学しようと、毎日何十人となく接骨院を訪れたといいます。接骨院は通常の施術に支障をきたすほどで、そこで翌年からは試験1カ月前より見学者のために接骨院2階の一室を開放し、講習会を開きました。受講料は一切取らず、門弟・宇佐美信が生理学、衛生学、解剖学、外科学、消毒等の学科を担当し、実技を宇三郎と代診の石森が担当。1日3時間程度の講習をした後、毎日模擬試験が行われ、そこで成績が明示されるなど厳しい訓練の結果、講習生のほとんどが合格との実績を上げました。講習生からは、後の全日本柔道整復師会会長の谷田部通一を輩出。宇三郎には子が無かったため、接骨院の後継者はいませんでしたが、その技術は門弟を通じて現代の柔道整復師界にも受け継がれているのです。
主な参考文献:前田勘太夫(1921)『竹岡式接骨術』、宇佐美信(年代不明)「先覚者の横顔(一)恩師竹岡先生を偲ぶ」(『日整百年史』所収)
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。
連載『先人に学ぶ柔道整復』一 竹岡宇三郎(前編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』一 竹岡宇三郎(前編)
2017.01.10
「柔道接骨術公認期成会の会長で、一日三百数十名が来院する接骨家」
柔整師として自らのルーツをどう説明していいのか分からない――こんな悩みを持ったことはありませんか。実はこれが、私が柔道整復の歴史研究を始めた理由です。3年前より早稲田大学大学院で研究を進め、その成果として、昨年、歴史書『柔道整復師―接骨術の西洋医学化と国家資格への歩み』を刊行しました。本欄では、拙著でも取り上げた、現在の柔道整復の基礎を築いた先人たちに焦点を絞り、歴史を振り返ります。多くの柔整師の先生方が自らのルーツをひも解く一助となれば、本望です。 (さらに…)