連載『先人に学ぶ柔道整復』四十四 三浦勤之助(前編)東京帝国大教授の柔道との関わり
2025.06.02
今回のシリーズは、大正9(1920)年の内務省令「按摩術営業取締規則」の改正により柔整師が公認されたことに尽力した三浦勤之助を取り上げます。
三浦は元治元(1864)年に福島県高成田村(現・伊達市)で生まれました。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』四十四 三浦勤之助(前編)東京帝国大教授の柔道との関わり
連載『先人に学ぶ柔道整復』四十四 三浦勤之助(前編)東京帝国大教授の柔道との関わり
2025.06.02
今回のシリーズは、大正9(1920)年の内務省令「按摩術営業取締規則」の改正により柔整師が公認されたことに尽力した三浦勤之助を取り上げます。
三浦は元治元(1864)年に福島県高成田村(現・伊達市)で生まれました。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』四十三 天神真楊流柔術(後編)古くは東洋医学を用いて「当身」を説明
連載『先人に学ぶ柔道整復』四十三 天神真楊流柔術(後編)古くは東洋医学を用いて「当身」を説明
2024.12.04
柔整師に縁深い天神真楊流柔術について、今回は「医学要素」を紹介したいと思います。
天神真楊流柔術の伝書『柔術経絡人之巻』(鈴鹿家蔵)にみられるように、1841年の江戸後期頃になると、既に経絡を中心とした東洋医学を大いに援用していることが分かります。創始者・磯又右衛門はおそらく楊心流柔術と真之神道流柔術からの知識・技術に加え、経絡も勉強していたと推察されます。
ただし、全ての医学知識を経絡に頼っていたわけではなく、同流柔術の特徴である当身(急所)に関して、東洋医学の用語を用いて説明をしているのです。例えば、当身「松風」は以下のように記されています。
松風の殺は喉の当也。此経は気往来する所の道路也。人間上焦に咽喉の二つ左右に分れて二管有。一つは水穀の道路。其一也、息管と云物あり。一尺二寸九節ありて、肺の臓に系統して有物なり。此裏に十律備り人間の韻声は此肺より出る也。味は争いを好む。活は則大腸を摩回を致す。諸経の当、是を以可レ知。
この松風では、東洋医学での用語として、「気」「上焦」「水穀」などを使用しています。
また、下記の図で示した『天神真楊流当身』では、当身について説明している人体図において、 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』四十二 天神真楊流柔術(前編)柔整師に最も縁の深い柔術
連載『先人に学ぶ柔道整復』四十二 天神真楊流柔術(前編)柔整師に最も縁の深い柔術
2024.09.26
今回から、現在の柔整師に最も縁の深いといえる「天神真楊流柔術」について取り上げてみたいと思います。
天神真楊流は、柔道の創始者・嘉納治五郎が修業時代に学んだ「柔術」の流派の一つです。嘉納は少年時代、体が弱かったため強健な身体を得たいと思い、柔術の門を叩きました。しかし、師匠を見つけるのは容易ではありませんでした。その理由は『講道館発展史』に記されていて、「斯の道の名家は、概ね整骨を兼業とし、或は、他業に隠れて世間に出でず」との状態だったからです。明治時代において天神真楊流の名家は、ほとんどが整骨(接骨)で生計を立てていたというくらい接骨を身近な技術として身に付けていました。
さて歴史をさかのぼって、この天神真楊流の創流の経緯とその流儀がどのようなものだったか、『当流大意録』と『柔術地之巻』の記述からみてみましょう。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』四十一 真之神道流柔術(後編)東洋医学の考えも引き継ぐ柔術技法
連載『先人に学ぶ柔道整復』四十一 真之神道流柔術(後編)東洋医学の考えも引き継ぐ柔術技法
2024.07.25
天神真楊流柔術の源流の一つである「真之神道流柔術」について、今回はその医学要素、中でも「陰陽」と「当身」の観点からみてみたいと思います。
同流の要点は、心と体の動きを一致させ、陰陽を自在にすることにあります。『真之神道流上檀巻』では、冒頭に「兵道兵術ニ及ビ、敵ニ因リ転化変動スルハ常ナリ」とあります。
また、同流の伝書である『柔術秘学抄』においても「万物に変化たがひの心に有なり」とあります。そして、これは「陰陽」の考え方に基づいていると書かれています。戦では敵や戦況に合わせて応変自在に動くことが重要視されました。このように「陰陽」の考え方は楊心流柔術に続き、真之神道流柔術でも柔術技法に取り入れられました。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』四十 真之神道流柔術(前編)武術(殺法)において陰陽を重視
連載『先人に学ぶ柔道整復』四十 真之神道流柔術(前編)武術(殺法)において陰陽を重視
2024.05.24
今回から、天神真楊流柔術の源流の一つである「真之神道流柔術」を取り上げていきます。真之神道流柔術は江戸後期に大阪・同心の山本民左衛門によって創流され、天神真楊流柔術の伝書『当流大意録』において、磯又右衛門が楊心流柔術と真之神道流柔術とを合流して創始したとの記述があります。このことから、天神真楊流柔術と深い関係があることが分かります。
同流の伝書には『真之神道流上檀巻』、『柔術秘学抄』、『九箇条之極意』などがあり、これらの史料と『当流大意録』を参考にその成立と考え方について解説します。
真之神道流柔術は楊心流柔術から分派されたこともあり、手形手数(技の形や数)や名(技の名称)が楊心流柔術と重複するところが数多くみられます。民左衛門は楊心流柔術の303手から抜粋し、初段・中段・上段と段位を定め、また技の数も68手に絞りました。また、同流の要点は、心と体の動きを一致させ、陰陽を自在にすることとあります。そのため、戦場で組討ちとなった際、甲冑を着用し動きが不自由な状態にあっても、寝起きや行動が自由にできるとあります。以下、伝書より引用。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十九 楊心流柔術(後編)殺法、活法、急所(当身)について
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十九 楊心流柔術(後編)殺法、活法、急所(当身)について
2024.02.25
柔整師にゆかりのある「楊心流柔術」について、今回は殺法と活法(殺活術)、そして急所(当身)についてみていきます。ご存じのように、楊心流柔術の技の特徴には、相手を攻撃するための「殺法」と、相手を蘇生する「活法」があります。殺法の技法には、仕掛け技の合間に必ずといってもよいほど、急所に対して「当て」や「蹴り」の手数を加えます。一方、急所は活法でも使用されており、この技術がのちに接骨術に引き継がれています。
こうした殺活術は、楊心流柔術の伝書で「文章」と「胴譯図という人体図」によって残されています。「胴譯図」は「胴釈図」「胴釈ノ巻」「胴釈門」などとも呼ばれ、「胴譯(釈)」とは「人体解剖」という意味です。楊心流柔術の伝書の一つである「楊心流殺活二法」の序文には、
「楊心仙兵衛義時ナル者アリ……嘗テ長崎ニ遊テ魏ノ武管伝来ノ胴釈ノ巻ヲ受ケ(故ニ胴釈之巻ヲ以テ印可免トス)、此ノ微旨ヲ悟リハ徳ノ巻ヲ著シ、楊心流ト称ス」
と記されています。この記述を説明すると、楊心(大江)仙兵衛義時(楊心流2代目)という者が、魏の国の武管という者から伝来した胴釈ノ巻を受け、その理解をもって(印可の免状を受け)楊心流とした、とあります。つまり、胴釈ノ巻(人体解剖)の会得は楊心流の伝承にとって大変重要なことであるのが分かります。
(さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十八 楊心流柔術(前編)接骨術のルーツとなる江戸時代の柔術
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十八 楊心流柔術(前編)接骨術のルーツとなる江戸時代の柔術
2023.11.25
今回は、柔整師にゆかりのある、江戸時代に開かれた「楊心流柔術」を取り上げたいと思います。今日の柔道整復術の源流の一つに天神真楊流柔術があります。この天神真楊流柔術の元をたどると楊心流柔術に行き着きます。また、嘉納治五郎も修業時代に天神真楊流柔術家の福田八之助に柔術を習っていました。
楊心流柔術は2つあると言われています。1つは楊(揚)心古流という三浦揚心から起こったもの。もう1つは秋山義時から起こったとする楊心流です。『柔道史攷』によれば、「嘉納先生の考証によれば、秋山の楊心流は三浦の揚心流より生まれたるものなるらしとのことなれど、明瞭ならず」とあります。また藤原稜三氏によれば、「揚心古流の原形は……(略)……源氏の一族に伝承されてきた『鞍馬拳法』の流れをくむものであるから……(略)……秋山四郎兵衛義時の技法とも基本的には付合するものとなる」とあります。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十七 戦後の柔道整復師試験(後編)戦前から試験問題はどう変化したか
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十七 戦後の柔道整復師試験(後編)戦前から試験問題はどう変化したか
2023.08.10
戦後、試験を含めて柔整師に関する養成は、GHQの指導の下、治療水準が科学的に引き上げられる方向へ向かいました。今回、戦後の試験の出題問題について戦前と比較してみたいと思います。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十六 戦後の柔道整復師試験(前編)GHQ主導で柔整師教育が再構築
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十六 戦後の柔道整復師試験(前編)GHQ主導で柔整師教育が再構築
2023.05.25
今回は、第二次世界大戦の日本の戦後処理において、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の公衆衛生福祉局が取った「衛生行政における柔整師への対応」について見てみたいと思います。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十五 大正期の柔道整復師試験(後編)各地で実施、地位確立のため皆が奮起
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十五 大正期の柔道整復師試験(後編)各地で実施、地位確立のため皆が奮起
2023.02.24
大正9(1920)年10月、柔道整復術の公認試験として「第1回柔道整復術試験」が、東京の警視庁で2日間にわたり実施されました。1日目が筆記試験、2日目が実技及び口頭試問でした。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十四 大正期の柔道整復師試験(前編)試験導入には接骨術の医学的根拠が必要
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十四 大正期の柔道整復師試験(前編)試験導入には接骨術の医学的根拠が必要
2022.12.09
今回は、人物がテーマではなく、日本の近代衛生行政において、初めて実施された「大正期の柔道整復師試験」について取り上げてみたいと思います。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十三 一松定吉(後編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十三 一松定吉(後編)
2022.10.10
敗戦後のGHQに柔整師身分の擁護訴える
1947(昭和22)年、戦後の新憲法による国会の選挙が4月に行われました。その結果、6月1日に片山哲内閣が組閣され、一松氏は厚生大臣に就任します。一松氏はその前年の5月、全日本柔道整復師会の会長を辞任し、名誉会長となっていました。その後継者として小林大乗氏(医学博士)が会長に就き、会の名称も日本接骨師会と改められました。
戦後処理の真っただ中、柔整業界も重大な局面に直面していて、新憲法施行により1947年12月末日限りで従来の各省令は失効されることになり、これに伴って按摩術営業取締規則も廃止されることとなったのです。これを受け、日本接骨師会は国会及び関係各省庁の了解を得て、柔整師の身分法を獲得しようと動き出し、終戦後の柔整師の単行法制定に向けて活動を始めました。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十二 一松定吉(中編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十二 一松定吉(中編)
2022.08.10
新戦闘機「接骨師號」の献納
全日本柔道整復師会では1938(昭和13)年4月から会長が不在となっていましたが、単行法請願運動は継続して展開されていました。しかし、この運動は衆議院議員・藤尾安太郎氏の力を借りても実現できませんでした。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十一 一松定吉(前編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十一 一松定吉(前編)
2022.05.25
戦後の全日本柔道整復師会会長
今回は第二次世界大戦前後(1941年4月―1947年5月)に全日本柔道整復師会会長に就任された、一松定吉(ひとつまつ・さだよし)氏についてみてみたいと思います。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十 江戸時代の電気治療器(後編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』三十 江戸時代の電気治療器(後編)
2022.02.10
佐久間象山の「電気治療器」
前回紹介した平賀源内のエレキテル発明(実際には復元)から少し時代が下ると、電気医療器具が内服薬と同じ効能を持つという考え方が出てきます。石坂空洞閲・山田貞順によって、1857(安政4)年に刊行された『内服同功』です。この頃というのは、アメリカのペリーの黒船が浦賀沖に来航した時期と重なり、下田や函館が開港した際にアメリカから電信機器や汽車(模型)などが贈呈され、日本の電気技術の研究は軍事技術として急速に発展を遂げていました。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十九 江戸時代の電気治療器(前編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十九 江戸時代の電気治療器(前編)
2021.12.10
日本電気の祖・平賀源内の「エレキテル」
今回は番外編として「電気治療器」にスポットを当てて先人に迫ります。
現在、電気療法は低周波・中周波領域の電磁波を用いた刺激療法として、柔道整復では後療法、理学療法では物理療法の一部として広く活用されています。発展の歴史をさかのぼれば、日本では明治時代の文明開化による電信・電灯の普及に混じる形で急速に進んだのですが、これに先立ち、江戸時代の電気機器技術の学術的形成も見逃せません。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十八 星野良悦(後編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十八 星野良悦(後編)
2021.09.24
(前/中/後)
良悦没後の「身幹儀」
今回は、良悦が亡くなった後の「身幹儀」を追ってみたいと思います。
没後3カ月の1802(享和2)年6月、かねて医学館に献納した「身幹儀」の手当てとして幕府から30両が与えられました。これを拝領した良悦の養子・星野柔克(旧姓は土岐柔克)は広島藩の侍医にとなり、藩侯からも厚い信任を得ました。一方、「幕府医学館に兼備された身幹儀は」というと、1806(文化3)年3月の大火災、いわゆる「文化の大火」により焼失してしまいます。その後、身幹儀を模した木骨がいくつか作られます。漢蘭の医家たちの間で研究などのために数基作製され、また良悦の弟子・中井亀輔(後に大槻玄沢の門下生)と深い親交のあった蘭方医・新宮涼庭(長崎商館医)も広島の指物師に「身幹儀」を模造させたと伝えられています。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十七 星野良悦(中編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十七 星野良悦(中編)
2021.08.10
(前/中/後)
工匠・原田孝次による身幹儀完成と弟子たちの助力
江戸時代中期に作られた世界初の原寸大骨格模型・身幹儀(星野木骨)――今回はその作製エピソードとどう世に広く知れ渡ったかを見ていきます。
祖父・良知が営む星野診療所が、広島城下を南北に貫く本川の西岸にある堺町(西国街道から北へ1本目の道に面する)にあり、良悦は幼少の頃からその医術の手ほどきを受けていました。祖父の亡き後は、父・知近が診療する脇でその療法を習い覚え、明和8(1771)年の17歳の頃には父の代診をするまでになっていました。その年の4月、街道沿いの旅籠「千鳥屋」のおみよという名の赤子が顎関節脱臼で診療所に駆け込んできました。父・知近は対処するも「治せぬ」ということで、水夫町に無住心大射無限流の道場を開いていた田中道長という骨接ぎ名人に整復を依頼します。良悦がおみよを連れて行き、道長は見事に顎を整復。その際、良悦は整復の手並みを拝見したいと申し出たが、秘伝の活法ということで断られてしまう。おみよが治り安堵した一方で、この時、医師としての敗北も悟ったようです。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十六 星野良悦(前編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十六 星野良悦(前編)
2021.05.25
(前/中/後)
顎関節脱臼の整復から骨格模型を着想
今回から「星野木骨」と呼ばれる世界初の骨格模型を作った星野良悦(1754-1802)について取り上げます。
蘭学者で、町医者でもあった良悦は、江戸時代中期に「身幹儀」という世界で最初の原寸大の精巧な男性骨格模型標本を作製します。この身幹儀は2004年に国の重要文化財として指定されました。良悦とともに、大槻玄澤が著した『身幹儀説』の記載を中心にその生涯をみていきたいと思います。 (さらに…)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十五 二宮彦可(後編)
連載『先人に学ぶ柔道整復』二十五 二宮彦可(後編)
2021.01.25
『正骨範』は後世にどのような影響を与えたのか――二宮彦可を取り上げてきたシリーズ最終回は、彼の没後を見てみたいと思います。
彦可には、安藤督(二宮督)という門下生がいました。督は彦可の養子となって二宮家を継ぎ、『正骨原』という画軸を著しました。現在、長崎大学に所収されているものは、督から肥前大村藩の藩医待山道生に与えられたもので、「吉原翁創意」と頭書されていて、吉原杏蔭斎元棟の手法の系統を引くことを示しています。『正骨範』に収載されている「正骨手技」のうち、探珠2図、熊顧、靡風、燕尾、螺旋、車転、円旋、騎竜、弄玉、鴿尾、游魚、鶴跨、尺蠖、躍魚、鸞翔の各1図、計16図が描かれていて、右香斎という画家の手によって描かれた、文政・天保年間(1818-1844年)の筆と推定されています。 (さらに…)