連載『先人に学ぶ柔道整復』九 嘉納治五郎(後編)
2018.05.25
柔整との接点と治五郎の高弟たち
治五郎のお話の締めくくりとして、彼の柔道整復との接点に触れてみたいと思います。治五郎が創始した講道館柔道は明治中期より柔術各流派を統合し、次第に興隆の徴を表していました。接骨に対しては、「講道館柔道には人の足腰を察するようなことはさせたくない」という見解を当初示していたようです。というのも、大正末期まではいまだに江戸時代の考え方が色濃く残っており、地域医療に対する世間の見方は「士農工商でいえば、工と商の間くらい」の評価でしかありませんでした。武家由来の柔道家が接骨を営むことについて、治五郎が理解を示さなかったのもやむを得ないことでしょう。このように医療行政的に厳しい状態の中で、どうにかして接骨を業としてつなぎとめたのは、天神真楊流をはじめとする各流派の柔術家による秘術としての接骨術が世間に対して治療実績を上げ続け、信頼を得てきたからだといえます。一方、1906(明治39)年には整形外科が一般外科から分離独立し、東京大学内に講座が開設されています。このため、整形外科は接骨業と診療科目が重なり、将来的に両者は競合することが懸念されていました。
こうした中、治五郎は萩原七郎の強い働きかけにより、講道館の高弟である山下義韶を派遣し、全国の接骨家と協力して「柔道接骨術公認期成会」を結成し、接骨術の法制化に協力しました。その結果、「接骨」は、1920(大正9)年に按摩術に準じて免許を与えられることになり、「柔道整復」という名で初めて法規の上で認められることとなりました。
この「柔道接骨術公認期成会」には、山下のほかにも治五郎の高弟の柔道家がいくらか協力しています。例えば、大阪では戸張滝三郎(1872年~1942年)。のちに大阪調整会の相談役兼顧問を務め、大阪府柔道整復師会の代議員や副会長などを歴任しています。また、講道館関係者では、愛知の米田松三(1892年~1958年)がおり、愛知県柔道整復術組合(現愛知県柔道整復師会)の創設メンバーとして尽力しました。米田は愛知県立第一中学校時代に既に初段を取得していましたが、東京物理学校への進学のため上京した際に、山下の元に住み込み、そこから講道館へ柔道の稽古に通っていました。その後、米田は柔道9段となり、さらに柔整師として愛知県柔道整復師会の第3代会長に就任しています。1928(昭和3)年には施術所を併設した「米田道場」を創設し、この道場は後の米田柔整専門学校へと継承されています。
治五郎の柔道整復に対する関わりは政治的側面が強かったのですが、治五郎の高弟たちの活動により大阪、愛知など大都市で柔道整復の基盤が作られ今日に至っています。
参考文献:加藤高茂、長谷川泰一、江口真一編(1959年、米田松三遺徳顕彰会)『米田松三』ほか
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。