連載『先人に学ぶ柔道整復』十三 各務文献(前編)
2019.01.25
―江戸時代の名著『整骨新書』の著者―
今回から、江戸後期の整骨医である各務文献(1754~1819)を紹介します。文献は文化7(1810)年に『整骨新書』を記し、江戸時代の接骨術に関する三大名著の著者の一人に挙げられます。他の名著とは、高志鳳翼が延享3(1746)年に記した『骨継療治重宝記』と、二宮彦可が記した文化4(1807)年の『正骨範』です。
文献は大阪の西横堀で生まれました。各務家は代々赤穂藩浅野家の家臣でしたが、松の廊下の刃傷により主家が没落したため大阪に移り住んだといいます。文献は通称相二、字を子徴、帰一堂と号しました。少年時代より農工商を好まなかったため、定職がなく、将来何をしようかと職業の選定には大変迷ったようです。
ある日、世の中に役立ち、多くの人を支えるには医学を志す以外にはないと悟りました。その中でも「昔から日本に伝わり、未だに詳しく究められていない漢方の“古医方”と“産科”と“整骨術”の三つを開拓してもっと盛んにしたい」と思い立ち、これらの三つの科を志すことにしました。まず古医方を学ぼうと古医書について研究を始めました。しかし、志に合わなかったのか、次に産科を学び始めます。これは文献の性格に合ったようで、すぐにその奥義を極めて難産を救う数々の方法を創案し、産科の器械を何種類も作ったと自負しています。
その後、さらに整骨医を志し、大阪難波村の骨継「伊吹堂年梅家」へ入門しました。しかし、年梅家では整骨術を秘伝として門弟にさえも伝えないことに憤慨。自分で研究し修得するしかないと考えました。文献は中国の整骨術のあり方を追従することを憂い、旧説に依存しませんでした。
一方、蘭学にも目を向け、西洋流の整骨術の弱点も指摘し、実証的に医学を研究する姿勢を重視しました。既にその頃、関西には多くの蘭学者がおり、あちこちで解剖が行われていました。その影響もあり寛政12(1800)年、文献が46歳の時、自ら大阪で刑死者の解剖を行い骨関節の構造と運動作用の原理を推究しました。これに東洋的手法も加え、解剖学と生理学に立脚した整骨術を体系付けます。こうして文化7(1810)年、『整骨新書』三巻に精巧な図譜『各骨真形図』一巻及び『全骨玲瓏図』二枚を附して出版しました。その後も文献の研究の熱意はやまず、文政2(1819)年に腕の良い匠に命じて木製の全骨格の実物大の模型を作らせ「模骨」と命名し、それに整骨術の主意をしたためた『模骨呈案』一巻を附して幕府の医学館に献納します。しかし、はからずも病が悪化し、この年の10月14日に65歳で生涯を閉じました。その亡骸は現在、大阪市天王寺区夕陽丘の浄春寺に眠っています。後の大正8(1919)年には、文献の功績に対し従五位が追贈されました。
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。



