連載『先人に学ぶ柔道整復』二 竹岡宇三郎(中編)
2017.03.10
卓越した整復技術を披露し、法制化に貢献
今回は竹岡宇三郎の柔道接骨術公認期成会(期成会)の会長としての活動に迫ります。
明治末期、「接骨術」を法制化するために組織された期成会の実質的な政治活動は、萩原七郎(柔道家、接骨家)によって開始されました。柔道保存という国家的な見地に立ち、柔道家の生活確立のための経済基盤を整えようとした人物です。萩原については、『柔道接骨術公認期成会設立ノ理由』(1913年7月)の中の、「武ハ誠ニ国家精神ノ根本ナリ…(中略)…、益々光輝アルモノハ柔道ナリ…(中略)…、其奥儀ニ於テ、幸ニシテ接骨術ノ一法アルナリ、由テ以テ柔道ノ命脈ヲ持続シ来リタリ、故ニ柔道伝授ノ心法ニシテ、生々子孫ニ渉リテ断絶スルナクバ、日本特有ノ柔道ハ誠ニ永古不朽ノモノタルナリ…」との記述からその強い意志が窺えます。
しかし、結成までに萩原は活動への賛同者集めに大変苦労します。理由は33歳という若さで、多くの接骨家が政治的指導者として認めなかったことにありました。そんな中、宇三郎は、相談に来た萩原の公認運動の姿勢に共鳴。会長の重責を引き受けます。これにより数多くの接骨家が参集し、1913(大正2)年に期成会が結成されました。柔道接骨術公認の請願書は何度か議会に提出され、その後内務省衛生局の諮問に付されました。そして公認の可否について、接骨術の「実態調査」という最後の段階に差しかかり、接骨術の「真価」について当局の理解を深める必要に迫られたのです。
実態調査の当日、当局の技官や、内務省衛生局から派遣された医学博士らが竹岡接骨院に集まりました。宇三郎は、西洋医学に基づいた病態の把握及び整復時に患者に苦痛を与えず、後遺症の少ない手順等の整復技術のほか、殺菌性の高いヒバ木の副木や、宇三郎考案の固定力が高い上、人体にフィットしやすく整形できる金属シーネを用いた合理的で科学的な固定法の実地を直接披露し、当局の認識を新たにさせました。
こうして宇三郎の卓越かつ医学的根拠に立った技術が接骨術の信頼度を高めたこともあり、1920(大正9)年に柔道接骨術は「柔道整復」として公認(按摩術営業取締規則改正)されました。この時、宇三郎は警視庁の第1回柔道整復術試験の実技担当の試験官に任命されます。これを知った全国の受験生が見学しようと、毎日何十人となく接骨院を訪れたといいます。接骨院は通常の施術に支障をきたすほどで、そこで翌年からは試験1カ月前より見学者のために接骨院2階の一室を開放し、講習会を開きました。受講料は一切取らず、門弟・宇佐美信が生理学、衛生学、解剖学、外科学、消毒等の学科を担当し、実技を宇三郎と代診の石森が担当。1日3時間程度の講習をした後、毎日模擬試験が行われ、そこで成績が明示されるなど厳しい訓練の結果、講習生のほとんどが合格との実績を上げました。講習生からは、後の全日本柔道整復師会会長の谷田部通一を輩出。宇三郎には子が無かったため、接骨院の後継者はいませんでしたが、その技術は門弟を通じて現代の柔道整復師界にも受け継がれているのです。
主な参考文献:前田勘太夫(1921)『竹岡式接骨術』、宇佐美信(年代不明)「先覚者の横顔(一)恩師竹岡先生を偲ぶ」(『日整百年史』所収)
【連載執筆者】
湯浅有希子(ゆあさ・ゆきこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部柔道整復学科助教
柔整師
帝京医学技術専門学校(現帝京短期大学)を卒業し、大同病院で勤務。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程を修了(博士、スポーツ科学)。柔道整復史や武道論などを研究対象としている。