オン資導入のYouTube説明会、厚労省が今週末に
2024.11.19
投稿日:2021.09.24
今回は、良悦が亡くなった後の「身幹儀」を追ってみたいと思います。
没後3カ月の1802(享和2)年6月、かねて医学館に献納した「身幹儀」の手当てとして幕府から30両が与えられました。これを拝領した良悦の養子・星野柔克(旧姓は土岐柔克)は広島藩の侍医にとなり、藩侯からも厚い信任を得ました。一方、「幕府医学館に兼備された身幹儀は」というと、1806(文化3)年3月の大火災、いわゆる「文化の大火」により焼失してしまいます。その後、身幹儀を模した木骨がいくつか作られます。漢蘭の医家たちの間で研究などのために数基作製され、また良悦の弟子・中井亀輔(後に大槻玄沢の門下生)と深い親交のあった蘭方医・新宮涼庭(長崎商館医)も広島の指物師に「身幹儀」を模造させたと伝えられています。
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